61号 「節分について」
節分は「立春正月」の観点から、その前日の大晦日に当たり、「追儺式」や「鬼やらい」をして、新年という春を迎える事を指します。令和6年は2月3日が節分となりました。
この「節分」という行事は中国から日本に伝来し、当初は大儺と呼ばれておりました。大儺(たいな)は、儺人(なひと)と呼ばれる役目の者が、方相氏(ほうそうし)という鬼のような仮面を付け、桃の弓・葦の矢・戈といった武具を持ち、「鬼やらう」と歓呼しながら目に見えぬ鬼を追うものでしたが、やがて大儺から追儺(ついな)へと名称が変わるにつれて、本来は鬼を追う儺人が、鬼のような仮面を付けていたため、逆に目に見える鬼として豆を撒かれ、追われるようになったそうです。
中国から伝来した節分の風習ではありますが、現代中国には日本の様に、立春の前日に邪気を払う風習はありません。意外な事に、中国から伝来した節分の風習は、日本に於いて定着し、年中行事の一つとして根付いているのです。
当宮での節分祭の始まりは、東一北振会(現:一番町四丁目商店街振興組合)の皆様の存在でした。八幡町出身の加藤英三郎氏は商店会役員様の多くが戌年生まれという事で商店会の皆様に声掛けを行い、昭和22、23年ごろより戌年生まれの守護神且つ仙台総鎮守の当宮へ、毎年参拝されておりました。
時がたち戦後の混乱期も落ち着いたとはいえ、青少年育成の機運も未熟な時代に「子ども達に野球ボールの一つでも配れれば」との思いから当宮及び氏子総代との協議の末、昭和33年(戌歳)より「大崎八幡宮節分祭」を斎行することとなりました。
当宮の節分祭参列者の皆様の「厄」は、八幡様のご神徳により「役」へと転じ、新年のお役目を担う年男・年女となり、社殿前にいた「赤鬼」「青鬼」は皆の撒く豆によって退治され、清められます。
そして、この豆を撒くときに一般的には「福は内、鬼は外」と繰り返し唱えますが、当宮の場合はこの唱え言葉の後「天打ち、地打ち、四方打ち、鬼の目ん玉ぶっつぶせー」と続きます。これは仙台に昔から伝わる口上で、なぜそのように唱えるようになったのかは不明ですが、当宮の節分祭が始まった昭和23年頃より言われ続けてきたようです。
『節分(豆まき)』には、新春を迎える神事として定着し、煎り豆を歳の数だけ食べると一年間無病息災であるという意識が浸透していることからも判るように、昔から「災いごとを取り除き、福が来ますように」と人々の一年間の願いが強く込められていたのかもしれません。
Q何故、豆をまくようになったのですか
A 豆を撒くようになった時期は、節分が宮中より民衆に広まった室町時代といわれています。日本人は古来より穀物を尊ぶ傾向にあり、特に大豆はその利便性の良さから米と共に重要な穀物とされてきました。また、穀物に霊宿るとされ、大豆はその穀物の中で一番大きく、投げても音が大きいという特徴があります。
音で祓うという意味もあるとされ、陰陽道でも豆が邪気祓に効果的と言われております。豆を煎ることが「魔目を射る」、拾い忘れても魔の目が出ないなど思いを託した言葉にも象徴されるように、大豆の豊かな生命力が鬼を追い払うという信仰に繋がり、豆を撒くようになったそうです。そして、生の豆を撒かないのは、豆の芽が出ると災いが広がるという考えからと伝えられています。
Q節分の時期に売り出される「恵方巻」とは
A 恵方巻を食べるようになった確かな起源は分かっていませんが、江戸時代から明治時代にかけて大阪の花街などで始まったとする説が有力と言われています。商売繁盛や無病息災を祈願する風習として始まったのが最初のようです。
さらに、関西地方には、その年の縁起のいい方角「恵方」にある社寺に参拝する「恵方詣」の風習があります。関西で恵方巻が始まったことには、昔から節分と恵方の結びつきがあったことも関係していると考えられています。
日本では昔から、長いものは縁起がいいとされているため、恵方巻のような巻き寿司も然りで、七福神にあやかって海の幸や山の幸など、豪華な7種類の具材を入れることで幸運を呼び込もうという狙いがあるとも言われます。
恵方巻は、切らずに1本をまるごと頬張るのが習わしで、食べている途中は、人と話したりせず、黙って1本を食べきらなければなりません。これは、一気に食べることで幸運を逃さないようにするためだそうです。