談山神社例祭に参列して参りました

令和7年11月17日


重要文化財に指定されている十三重塔

去る令和7年11月17日、奈良県桜井市多武峰に鎮座する旧別格官幣社の談山神社にて例祭が斎行され、職員が参列の為に出向致しました。

談山神社は奈良県桜井市多武峰に鎮座し、藤原鎌足公を主祭神としてお祀りする旧別格官幣社で、現在は神社本庁の別表神社に列しています。

談山神社の由緒は古く、飛鳥の法興寺で行われた蹴鞠会において、中大兄皇子 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、談山神社の本殿裏山での極秘の談合により、皇極天皇4(645)年に飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討つ「乙巳の変」が起こり、中央統一国家・文治政治の完成である「大化の改新」を成し遂げられたことに由来します。このことから多武峰は、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり、社号に繋がりました。

談山神社の主祭神である藤原鎌足公は、天智天皇8(669)年10月に天智天皇より大織冠内大臣の位と藤原の姓が与えられました。鎌足公の没後、御墓は摂津国 阿威山(現在の大阪府高槻市)に造られましたが、白鳳7(678)年に唐より帰国した長男・定慧和尚が、鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称し、大宝元(701)年には方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像が安置されました。

談山神社の長い歴史の中では、天正16(1588)年4月、当時の大和郡山城主の豊臣秀長の病気回復祈願の為、大織冠尊像が郡山に遷座させられたそうです。しかしながら郡山遷宮後、秀長の体調悪化や郡山城中での鳴動など奇怪な出来事が起こるようになり、大織冠の祟りであるとして天正18(1590)年12月28日に大織冠の霊像はもとの多武峯に帰座するという出来事もあったようです。

1869(明治2)年2月の神仏分離令により、廃仏毀釈が行われて妙楽寺は廃されました。神仏分離により妙楽寺境内にあった仏堂等は改称あるいは破却され、6月30日には談山神社と改称しています。

現在では桜と紅葉の名所として「関西の日光」と言われるほどの絶景で知られています。

本年の例祭は乙巳の変から1380年の節目にあたり、例年より早く色づいた紅葉に見守られる中で斎行されました。参列者は談山神社の責任役員・総代・氏子崇敬者を始め、神社界・経済界・関係諸団体の約70名ほどでした。祭典は午前10時30分に始まり、高坏に盛られた10台の神饌や発掘調査の記録写真より復元された鎌足公の枕の奉納、南都楽所による舞楽「抜頭」の奉奏がありました。祭典の結びには宮司挨拶があり、神社界や談山神社の今後に関する話が所々に笑いを添えて話がされました。直会は談山神社向かいの多武峰観光ホテルで行われ、紅葉に囲まれる本殿や十三重塔を眼前に様々な話に花が咲いておりました。

祓所の舗設一つにも一社の故実を感じます 例祭前の本殿前の様子

談山神社の宮司である金子清作氏は、当宮の宮司の國學院大學専攻科の同級生という事もあり、日頃より大変お世話になっている御仁であり、昨年の当宮の例祭献饌式等にも御参列を賜っております。金子宮司が談山神社の宮司に就任してより7年の月日が流れたそうですが、様々な境内管理事業に邁進され、歴史ある神社の護持と発展に努めていらっしゃるお姿を拝見しつつ、機知に富んだ楽しいお話もお伺いし、大変に学びの多い例祭参列でございました。

他の神社、ましてや県外の別表神社の例祭に参列できる機会はそう多くはございません。この貴重な機会で学んだ事を社務に反映していけるよう、精進して参りたいと存じます。

祭儀課 浅香

霜月月次祭並びに七五三祈請祭が斎行されました

令和7年11月15日


祭典の結びに記念写真を撮影しました

令和7年11月15日午前10時より月次祭並びに七五三祈請祭を御社殿にて斎行致しました。

月次祭は、月ごとの決まった日に行われるお祭りで、神恩感謝と皇室の弥栄、国家の隆昌、氏子崇敬者の益々の繁栄を祈るお祭りで、小祭にあたります。当宮では、毎月1日の月首祭と八幡様の御縁日である15日に月次祭を斎行しております。

この度の15日の月次祭は七五三の日としても広く親しまれております。その為、恒例の月次祭に併せ、七五三祈請祭も斎行致しました。

また、月次祭では、月々に大神様の御加護を賜われますよう、月参りのお印として御幣束を御頒かちしております。御幣束は大神様への捧げものでもあり、御神霊の依代ともなるものでございます。当宮の御幣束は、古来より伝わる「襲ね色目」を取り入れ、四季の移ろいを月毎の植物の色にて表現しております。当月は黄紅葉を表す赤色と黄色の御幣束でございます。

今回の祭典には氏子崇敬者2名、七五三詣の3組12名、合計14名の参列があり、玉串拝礼をして頂きました。また、七五三祈願のお子様方が健やかに成長されます事を祝詞に添えて大神様に祈願いたしました。

献饌の際に、七五三祈願の祝い袋もお供えしました 参列者玉串拝礼の様子

月首・月次祭はどなたでもご参列頂けます。祭典斎行15分前までに御社殿右側にあります祭儀棟の祈願受付までお申し出下さい。朝の清々しさの中でご神前に参拝することで、ますます大神様のご加護をお受け頂ければと存じます。皆様のご参列を心よりお待ち致しております。

祭儀課 浅香

小笠原流「蟇目の儀・百々手式」奉納式が斎行されました

令和7年11月9日


31世小笠原清忠氏と当宮宮司を中心に記念写真を撮影しました

去る令和7年11月9日午後2時より、当宮馬場に於いて小笠原流「蟇目の儀・百々手式」奉納式が斎行されました。

小笠原流とは、武家故実(弓馬故実)、軍陣故実、弓術、馬術、礼法(礼儀作法)の流派で、原型となったのは小笠原氏家伝の故実であり、室町時代中期以降、小笠原氏が武家社会における故実の指導的存在となったことから、同家の故実が武家全体に重んじられたとされます。初代長清に始まる清和源氏の家系で、初代長清は源頼朝の糾方師範として仕官したことに始まり、江戸幕府においても将軍家の師範として礼法・弓術・弓馬術を伝えてこられました。現在は31世小笠原清忠氏が道統を継承し、行事の執行や伝統文化の普及に努められています。

当宮では本年、県内にある小笠原流弓馬術教場の宮城菱友会殿のお申し出により、馬場にて「蟇目の儀・百々手式」奉納式を斎行する運びとなりました。

「蟇目の儀・百々手式」は、地上で弓を引くことから、弓術あるいは歩射に分類され、小笠原流の歩射は鎌倉時代に公家文化を参考に質実剛健の要素を加えて武家式として考案されたものだそうです。

蟇目の儀は矢の先につけた鏑が飛ぶ際に音を発し、その音によって魔性を退散させる祓いの儀式であり、祓いの蟇目・屋越の蟇目・誕生蟇目の3種類あるようです。

百々手式は祭壇などを飾り執り行う祈願の儀式で、本式で行うと丸一日を要するとされます。10人の射手が2組、10手(20本)ずつ合計百射、射る事から来ているそうですが、現在は二矢のみ射るようになっています。右側から五月雨式に射かけ、流れるような情景が印象的です。

習礼では本番と同じように進行し、遺漏が無いか確認します

奉納式当日は早朝から、宮城菱友会会員や小笠原流弓馬術教場の門人の方々によって斎場が舗設されました。

舗設が終了すると、奉納式奉仕者全員による習礼を行いました。当宮からは総代の澁谷雄一殿が日記奉行としてご奉仕申し上げました。

定刻、古式に則った装束を着装し、社務所大玄関にて手水をとり、御社殿にて、奉納奉告祭を斎行致しました。その後、記念写真を撮影し、馬場の斎場に向かいました。

参進の様子 奉納奉告祭では小笠原清基氏に玉串拝礼をして頂きました

馬場の斎場では、中世の武家絵巻が広げられたかの如く、色とりどりの装束に身を包んだ射手が並び、大変壮観でございました。31世小笠原清忠氏の嫡男である清基氏による「蟇目の儀」により、斎場が祓われ、百々手式に移りました。

蟇目の儀の様子 行事の由来の解説や実況をして頂きました

百々手式は5人の射手が2組という内容でしたが、男性と女性という装束や作法に少しずつ差があり、その差も拝見できるという仕様だった為、拝観者を飽きさせない工夫も微かに感じました。

日記奉行の掛け声にて百々手式は始まります 間近で作法が拝見できる機会はそうありません
百々手式の様子

百々手式途中より天候が思わしくなく、大変気を揉みましたが、常時60名程、通算100名以上の拝観者に見守られ、小笠原流31世小笠原清忠氏を始め皆様の御協力もあり、無事斎行することが出来ました。


奉納式終了後のほっとした奉仕者の顔が印象的です

この小笠原流「蟇目の儀・百々手式」奉納式は来年以降も継続して斎行を予定しております。来年の令和8年は10月の第一日曜日を予定しております。晩夏から初秋に移り変わる心地良い季節に、古式ゆかしい弓術を拝見し、日本の伝統文化の継承に思いを寄せるひと時はいかがでしょうか。

祭儀課 浅香