御 由 緒

平安の昔、東夷征伐に際して坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県水沢市に勧請、鎮守府八幡宮を創祀しました。その後、室町時代に奥州管領大崎氏はこれを自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬した為、世に大崎八幡宮と呼ばれました。

大崎氏の滅亡後は伊達政宗公が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、仙台開府後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀られました。

この際に旧領の羽前国米沢にて代々崇敬しておりました成島八幡宮と共に祀られました。 社殿の造営にあたっては、当時豊臣家に仕えていた当代随一の工匠が招聘され、その手に成った御社殿は豪壮にして華麗なる桃山建築の特色が遺憾なく発揮されており、仙台六十二万石の総鎮守として伊達家の威風と遷宮当時の絢爛たる息吹とを今に伝えております。

藩政時代を通じ歴代藩主の篤い尊崇を受け、明治以降は大崎八幡神社と称しておりましたが、御遷座四百年を間近に控えその歴史的経緯を考慮し、平成九年六月、社名を大崎八幡宮に復し、現在に至っております。

尚、当社殿は安土桃山時代の我が国唯一の遺構として国宝建造物に指定されております。

御 神 徳

当宮は仙台総鎮守として藩祖伊達政宗公はじめ歴代仙台藩侯はもとより、仙台城下の人々に至るまで厄除け・除災招福や必勝・安産の神として篤く尊崇されてまいりました。又、仙台における「卦体神」という十二支の神を信仰する習俗においては乾(戌亥)の守護神とされ、戌歳・亥歳生まれの人々からは格別の崇敬を受けております。

この様な歴史的背景から、当宮は現代においても仙台市民はじめ数多の崇敬者から心のよりどころとして仰がれております。

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御社殿の建築と工匠

大崎八幡宮の御社殿は、仙台藩祖・伊達政宗公の命により慶長九年より十二年にかけ、豊臣家召抱えの梅村日向守家次・梅村三十郎頼次・刑部左衛門国次・鍛冶雅楽助吉家といった当世随一の巨匠を招き造営されました。

その様式は入母屋造りの本殿と拝殿とを相の間で繋いだ石の間造りであり、後に権現造りと言われる建築様式は、外観は長押上に鮮やかな胡粉極彩色の組物(斗きょう)や彫刻物を施し、下は総黒漆塗りと落ち着いた風格を現し、拝殿正面には大きな千鳥破風、向拝には軒唐破風を付け、屋根は柿葺と意匠が凝らされております。

拝殿内部には狩野派の絵師佐久間左京の筆に成る唐獅子の障壁画や大虹梁の青龍、石の間の格天井には五十三種の草花が描かれており、俗に左甚五郎の作と伝わる花鳥動植物や説話風の人物など多彩な彫刻が組み込まれ、全体的に美しい調和をなし、安土桃山時代の文化を今に伝える我国最古の建造物であり、その貴重さから明治三十六年特別保護建造物に、また昭和二十七年には国宝に指定されました。

また、御社殿前の長床は創建年月不明ながら御社殿とほぼ同時期の建築として国より重要文化財の指定を受けており、その建築様式は、御社殿とは対照的に簡素な素木造りから成り、端麗にして瀟洒な佇まいを示し、その対比による階調には桃山文化の粋を窺い知ることができます。