■16号
鳩の声
「咲く 外面の木陰 露おちて 五月雨晴るゝ 風わたるなり」
藤原忠良
梅雨が明けると今年もはや夏の到来です。現代に生きる私たちにとって、夏と聞けば直ちに健康的で快活なイメージを抱くものですが、言うまでもなくそれはイマドキの日本人的感覚であって、本来この国の気候風土に即したものでは無く、いわば外来文化といえましょう。かつて、夏のはじまりである五月は忌み月とされておりました。なぜなら、言うまでも無く日本の夏は高温多湿でつらい季節であり、ましてひと昔前までは衛生事情が悪化し疫病が流行するという、まさに「五月縄なす荒ぶる神たちの季節」であり、いま各地にある「夏祭」は元来、みな疫病退散を祈るものであったのです。
その為か、日本においては古来より四季のうち春・秋・冬の風情については「雪月花」といわれる様にその特色を強調したものを重んじましたが、夏のみはその最大の特色たる暑さについては殆ど触れず、ひたすらその対極としての「涼」や「清々しさ」に心を向けておりました。
「道の邊に 清水流るゝ 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」
西行法師
「白露の 玉もて結へる の内に 光さへ添ふ 常夏の花」
高倉上皇
「村雨の 降りにし方の 空晴れて 夏を忘るゝ 袖の夕風」
伊達政宗
この様に、夏の美は主として「涼」と認識されていたのですが、昨今の世情をみる限り、いま私たちが迎える夏はどうも涼しく過ごし易い季節ではなく、暑苦しく耐え難いものとなりそうな雲行きです。八百年の昔、平安王朝が崩れ行く季節に際会した藤原定家は、頽廃しきった眼前の風景に対して
世上乱逆追討ノ事 耳ニ満ツト 雖モ之ヲ注セズ
紅旗征戎ノ事 吾事ニ非ラズ (『明月記』)
自分には何ら関わりの無い事である、世の中がどうなろうと知ったことでは無い、と日記にしるしました。しかしながら、また現実から逃れることをも潔しとはせず
ゆきなやむ 牛のあゆみに たつ塵の かぜさへあつき 夏の小車
と詠まずにはいられませんでした。、しかし、現状の把握のみでは稔り豊かな秋を迎えることはできないのは自明の理です。
それを認識するが故か、小泉首相は「決断と実行」を要諦としておりますが、この混迷の時代を刷新するには更に一歩進んで確信に基づく判断、即ち「確断」が必要と思われます。この二字はかつて「断行の人」として知られた大久保利通の座右の銘でありました。いま私たちが「荒ぶる季節」を乗り越えて幸福になる為には「最善を尽くさざれば次善を尽くし、常に出来得る程度において出来ることを為し、 むことを知らず(徳富蘇峰)」と評された彼の粘り強く事を進める姿勢こそ、不可欠とされましょう。しかる後にはきっと、
「手にならす 夏の扇と 思へども たゞ秋風の なりけり」
藤原良経
と左うちわで、美しい日本の秋の風情を心ゆくまで味わう日が、やって来るはずです。
八幡宮Q&A
Q:今年の四月二十日に行われた手斧始式の内容について教えて下さい。
A:手斧始式は、重要な造営事業や建築業者によって年初に一年間の工事安全を祈念し斎行されるもので、御用材として山中より切り出された御木を斎場へと運び入れ、工匠たちが中心となって鋸・手斧・鉋等を用いて原木より用材へと製材する様子を表現することにより、これから始まる工事の安全を大神様に祈る儀式です。
古くは工匠自ら儀式を執り行っておりましたが、時の流れと共に儀式の厳修が重んじられる様になり、近世以降、祭儀は神職、造作に関する儀式は工匠が執り行う現在の形が整いました。
当宮の場合、先ず仮殿において宮司以下神職の奉仕による「手斧始式奉告祭」が斎行され、それが終わる頃に参道を祓い清める神職の先導のもと、この日の為に鎌倉より招聘された鳶職による「木遣り唄」も勇ましく三之鳥居より御木を運び、斎場に奉安するところから手斧始式となりました。
御木の長さを量り、両端を鋸で切り落とし、幅を確認したあと手斧によって製材され、最後に鉋を用いて表面が仕上げられます。
この中で用いられました大工道具の手斧や鉋は、現在では殆ど見られない昔ながらのものです。
そして、往時の工匠の技を大神様の御前で再現するというこの儀式は、かつて本居宣長が「いま生きている人間には先人より受け継いできたことを次代へ継承する責務がある」とする「中今」の精神に通じ、また藩祖伊達政宗公が奥州の盟主としての威信を賭けて造営されました当宮御社殿を後世へと守り伝えるべく行われている、保存修理事業完遂を関係者が一丸となって真摯に祈念するものであったのです。