■10号
鳩の声
ツツジ咲き乱れ新樹色鮮やかとなり、確実に季節は夏に近づいているのが、鎮守の杜の中ではより一層感じられる。
この国は移りゆく季節に対し畏敬の念を表して、祭典、習俗、風習とを連綿と受け継ぎ、後世に本来あるべき姿で残そうとして力を尽してきた先代の民に対して、現代の我々は誇りに思うべきであろう。
さて、一年の半分が過ぎ、猛暑に立ち向かう季節の中、7月7日「七夕」という行事があるのは、既に承知の事と思うが、「七夕」と書いて「たなばた」と読むのはなぜだろうか。
古来7月7日の夜に、遠来のまれびと(神)を迎える為に水上に棚作りをして、聖なる乙女が機を織る行事があった。棚は「たな」、機は「はた」になぞり、7月7日の夕べの行事であるので「七夕」の文字を当てたそうである。
『天の川に、いつも機織りをしていて鮮やかな天衣を織り成す、天帝の子織女が住んでいたそうだ。天帝が独身であるのをかわいそうに思い、天の川の西に住んでいる彦星と結婚させた。結婚後、織女は機織りを怠るようになったので、天帝はお怒りになって二人を別れさせたが、7月7日の夜だけは川を渡って逢えるようにしたそうである。』
鎌倉初期、この星の物語を紀貫之が賛美して新古今和歌集に歌を載せている。
「七夕は 今や別るる 天の川 川霧立ちて 千鳥鳴くなり」
天の川に千鳥が鳴いているが、それは織女のしのび泣きだろうか、と叙情的にうけとめていて、当時の歌人達も織女と彦星の愛の賛歌を多く歌っている。
そもそも、七夕は盆行事の一環として、先祖の霊の祭りに先立ち、穢れを神に託して持ち去るのを願う祓の行事であったといわれている。
また、粟や稗などの農作物の収穫祭として七夕を迎える信仰も存在していた。この祭りの際に、胡瓜や茄子で馬、牛を作り、神の乗り物として、七夕に供えている。これが今の盆行事の由来となり、現在も引き継がれている祖先を敬い供養する、敬神崇祖の尊い思いであろう。
本年平成10年は、今上陛下御即位10年目の年にあたる。
元号が平成と成ってより阪神大震災、小学生連続殺傷事件等の大事件が続き、日本国が混迷を極めているよう感じられる。
叱られる事はあっても、共に涙を流す事が少なくなった学校教育にだけ頼るのではなく、家庭での神祭りを通して行う心の教育、また地域社会の体験として、お祭りのおみこしを担いで共に汗を流す等、学ぶべき場所は数多く存在していると思うが如何であろうか。
このような時代だからこそ、天皇陛下御即位10年を心よりお祝いし、この美しき国をより良く後世に継承したいと、鎮守の杜の鳩達も、七夕期間社殿前に飾られる笹竹に、願いを込めた短冊をかかげて真剣にお祈りしている。
(平成10年6月)
八幡宮Q&A
Q:大崎八幡宮の流鏑馬について、その由緒を教えて下さい。
A:流鏑馬は、古来宮中の馬場殿において、競馬の後に左右近衛の射手がその装束のまゝ的を射たという古事に端を発したものといわれております。
これにならい、武家がその年中行事に相応しい形としたものが流鏑馬と呼ばれ、鎌倉時代には全国の武家に広まり、各地において盛んに行われるようになりました。
それは「神の御前に於て、射礼を行いて神の照覧に備へ奉るは、弓矢を以て国家を治め給ひし、神恩を告奉る意なり。是天下泰平の祭例」(『古事類苑』)であったのです。
大崎八幡宮の流鏑馬は遠田郡八幡村に鎮座していた頃より九月十五日(明治中期迄は旧暦八月十五日)の例祭に齋行されていたと記録されております。
その射手三騎についても、やはり遠田郡鎮座当時より流鏑馬奉仕をしていた者たちであり、仙台城下へ遷座の後も連綿として元の如く奉仕し、仙台藩より御知行を賜り、郡役を免じられ、御神事上下御用の節は名字帯刀をも許されるなど厚遇されていたようです。
そして流鏑馬の後には、その的の奪い合いがあったと伝えられ、そのさまは現在仙台市博物館にて展示されている『大崎八幡宮来由記』(当宮所蔵)所載の「御神事之流鏑馬」の図に細やかに描かれております。
現在、流鏑馬神事は青葉区折立在住の庄司栄松氏をはじめとする射手によって奉仕されております。
神事は先ず安全齋行を祈念し本殿にて出陣式を執り行い、その後祓所にて神職が馬を大麻と塩で祓います。次に馬場祓役が祓串を片手に馬に乗り、「オーッ」という掛け声と共に馬場を疾走し、馬場元より馬場末までの罪穢を祓い清めます。
しかる後に、三人の射手が各々三度づつ馬場に設置された三箇所の的めがけて矢を放ちます。当宮の馬場は距離が短く、射手にとって大変難しいといわれております。