国宝 大崎八幡宮
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八幡さま便り

■29号

鳩の声

【写真】八幡さま便り22号 子供の頃、誰もが一度は「いただきます」「ごちそうさま」をキチンと言うようにと、親や先生から「しつけ」を受けたことがあるかと思います。外国では言葉の代わりに、家族が揃ってお祈りを捧げています。「日々の食事をいただけることに感謝の気持ちを込める」こと、それはいつの世も、どこの国でも同じように語り継がれているのです。
  現代の私たちの食生活は、核家族の増加、ファーストフードの供給によるスピード主義、或は塾や習い事などによる子供たちの生活様式の変化などにより、形式化、簡略化されてきています。「いただきます」「ごちそうさま」の心が少し薄れてきているようにも感じます。
  そんな今の世の中だからこそ、もう一度「感謝」の念を考えてみるべきではないかと思います。食物連鎖の頂点に立つ私たち人間は、あらゆる動植物の生命をいただいて、その命をつないでいることを決して忘れてはならないのです。
 「たなつもの百の木草も天照す日の大神の恵みえてこそ」(いただきます)
  「朝宵に物くふごとに豊受けの神の恵みを思へ世の人」(ごちそうさま)
  この歌は本居宣長が詠んだ『玉鉾百首』の中の一つで、宣長は食事の際、箸を止めて「このご飯がたべられるのも神様のおかげではないか、なぜみんなそのことを感謝しないのかなぁ」と、ふっと出た宣長の独自の歌であろうと思います。
  始めの歌は、たなつもの(五穀)や全ての木草の育みは、天照大御神(皇室の御祖神であり、私たちの総氏神。太陽神)の御加護のお蔭であるという意味です。次の歌は、朝夕の食事の際には豊受大御神(お米をはじめ衣食住の恵みを与えてくださる産業の神様)からの恵みを感謝せよという意味です。
  食前食後には必ず全員で合唱し、神様に感謝の念を捧げてからご飯をいただくと言う、古来からのしきたりのひとつです。必ず声に出して読まなくとも、心の中で唱えてから日々の美味しい食事を頂きます。
  どうか皆様も「いただきます」「ごちそうさま」の意味を考えていただき、毎日の食事をいつも通りいただける、そんな当たり前の幸せを思いなおしてみてはいかがでしょうか?

表紙について
御鎮座400年記念事業の一環として平成17年11月に建立。平成19年夏には朱の漆塗りを施し、本年9月15日篇額が掲げられた北参道鳥居。篇額の題字には、仙台藩五代藩主伊達吉村公が揮毫した『八幡宮』の文字に倣っており、その周りには伊達家の家紋と吉村公正室冬姫の実家、久我家の五つ竜胆車の家紋があしらわれています。


八幡宮Q&A

Q:水無月の大祓や年越の大祓に「罪穢」という言葉がでてきますが、これはどういった意味ですか。

A:  罪や穢れと言うと、一般的には刑法上の罪や見かけの汚れと誤解されやすいのですが、日本人が神道でいう「罪穢」とは、災厄が起こる原因と考えられている諸々の「罪」と、神事を行う時に忌み憚られる「穢」という二つの意味に分けて考えることができます。
  「罪」については、「延喜式」(昔の制度集)八巻に収められている大祓詞に「天津罪・国津罪」(あまつつみ・くにつつみ)として、二十以上に及ぶ罪が述べられています。これによると、天津罪は主として農耕を妨害する行為が、国津罪は傷害や不倫姦淫、他人を呪うことなどという反社会的行為が挙げられています。これらは律令が制定されるまで、具体的な罪名とされてきたことであり、この「罪」に対する代償として贖(あがな)いものを差し出すという「祓」が義務づけられていました。
  「穢」とは、「浄明正直」の言葉であらわされることとは異なるものが自らの身につく状態を指します。これらは自らの行為による「罪」と異なり、死、病など日常とは異なる諸事によって、受動的に起こる現象と考えられてきました。「穢」は神事への関与が憚られるほか、他人に災いを与えるものとされ、対処として水などよりこの「穢」を流し去る「禊」(みそぎ)が行われてきました。
  一般的には、「穢」の中に「罪」が含まれるという考えがあるため、祓詞(はらいことば)のように「罪穢」として同一に用いられることも多いようです。「禊」と「祓」とが、「禊祓」(みそぎはらい)と混同されるのもこのためです。神道には、キリスト教のように人が生まれながらに負っている「原罪」(げんざい)という考え方はありません。誰もが日常的な生活の中で知らず知らずに犯してしまう恐れのある「罪穢」に対して、常に慎みの心を持ち、身体を清浄な状態に保つために、八幡宮においては六月・十二月に「大祓式」を執り行っております。この大祓式にて半年間又、一年間の「禊祓」をおこなうことが、基本的な考え方といえます。

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