国宝 大崎八幡宮
> 33号

八幡さま便り

■33号

鳩の声

時の流れは早いもので、寒さも次第にきびしくなったこの季節。当宮の杜も冬支度に入り年末年始に向け進んでおります。
今年の東北楽天ゴールデンイーグルスはクライマックスシリーズにも出場し、優勝にはあと一歩届かなかったものの仙台を舞台に覆いに盛り上がりを見せました。
 そんな折、境内にはここ近年、若者達が当宮を参拝している姿が見受けられますが、その中でも特に女性の参拝者が目につきます。彼女達の多くは“歴女”とも呼ばれる歴史好きの女性としてメディアでも報道されましたが、その歴史の道に分け入ったきっかけとなったのが多くの場合、人気家庭用ゲームソフト『戦国バサラ』の影響が多いようです。そのヒットにより伊達政宗公や当主の右腕といわれる片倉小十郎といった戦国武将のクールでスタイリッシュないで立ちが若い女性達の中でブームになり、そこに登場する武将達の姿を通して実際の歴史に興味を持ち、歴史をより深く知りその息吹を感じる為にゆかりの地を訪れる観光客が増えている様です。その現象は全国的に広まりを見せ、空前の「戦国ブーム」として、地域活性のための云わば社会現象にもなってきております。
 その“ゆかりの地”としてここ大崎八幡宮でも歴史を知るために訪れる参拝者は後を絶ちません。
 伊達政宗公は米沢から岩出山を経て仙台の地に移り、ここを永住の地とみなし自分達の首府をつくる「仙台開府」を実行し、その中心になったのが仙台城であり大崎八幡宮でした。慶長12年(1607年)に、藩祖伊達政宗公の強い希望によって創建された大崎八幡宮は、こころの平穏と安寧を獲得するための祈りの場となっていったのです。社殿の構成内容からみると、新しい時代に対応する理想を追求し、重層的な世界の構築に全力をそそいだことが分かり、それは流行の先頭を行く「桃山の精神」と、無くしてはならない「みちのくの伝統」のふたつの要素を兼ね合わせることで具現化されたのでしょう。
 歴史を知るきっかけはどうであれ、政宗公を知ることにより「杜の都 仙台」を全国的に広め、地域活性のため将来また新しく発展して行くことになるでしょう。

   小鳩たちは日々皆様の御参拝を心待ちにしております。


八幡宮Q&A

Q:節分の由来について教えてください。

A:節分とは、厄を祓い新春を迎える神事であり、現代では立春の前日を指す二月三日がその日にあたります。本来は「季節を分ける」つまり季節が移り変わる節日のことで、立春、立夏、立秋、立冬それぞれの前日に、年に四回ありましたが、立春は特に一年のはじまりとして重要視されるようになり、次第に節分といえば春の節分のみを指すようになりました。  つまり立春を一年の初めである新年と考えれば、節分は大晦日にあたり、元々は旧年の厄や災難を祓い清める「大祓」の神事でした。
 また、節分といえば豆まきを行いますが、平安時代の宮中で大祓の日の夜に災厄の元凶となる鬼を祓うため、鬼に扮した人を追い払う「追儺(ついな)」又は「鬼儺(おにやらい)」と呼ばれる行事が行われており、その時代にはまだ「豆を撒く」という習慣がありませんでした。その後、室町時代以降には宮中から次第に民衆へと広まり豆をまいて悪鬼を追い出す行事へと発展し、定着していったのです。その起源は中国の習俗が伝わったものとされています。  日本人は昔から農耕民族で、穀物を尊ぶ傾向があり、特に大豆は米と共に重要な穀物とされてきました。そのため、その豊かな生命力が鬼を追い払うという信仰につながり、「煎り豆」を撒くようになりました。生の豆を撒かないのは「その豆の芽が出ると災いが広がる」と考えられたからです。
 そして豆は、「魔の目(魔目=まめ)」に豆を投げつけて「魔を滅する(魔滅=まめ)」に通じるといわれており、その「煎り豆」の活力を頂戴し、歳の数だけ食べると一年間無病息災であるという意識が浸透して、厄年のお祓いと新春を迎える神事として定着したものが現代に至っております。
当宮の節分祭でも毎年二月三日には年男年女、厄年にかかわらず、沢山の参拝者が一年の無病息災等を祈念し、撒豆式においても子供達が顔をほころばせながら豆や福物を受け取る姿が見受けられます。

このページの先頭へ